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下関市立大学

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トピックス

#学長室

「学長日誌」を更新しました

 4月に学長に赴任して3月余となりました。企業でも3カ月は研修期間のようなものがあります。私も似たような3カ月だったかもしれません。やっと大学全体が見渡せ、学長としてやるべきことがわかってきました。学生が夏休みに入る時期でもあって拘束される仕事もやや減ってきましたのでこれから学長日誌を書こうと思います。

 退職して1年間は、33年間の教員生活の片づけを行いながら、市外の2大学の非常勤講師、市立大学の非常勤講師(コンソーシアム関門)、市立大学の教員との共同研究2つ、研究を含めた地域活動など結構する仕事が多くありました。

 学長になって初めごろは挨拶まわりなどずいぶん忙しく立ち回りました。教員であったころよりずいぶん忙しくなりました。学部の授業、他大学の非常勤講師はなくなりましたが、これまでやってきた研究(地域調査)を含めた地域との関わり、様々な審議会・研究所などの会議に加えて、学長としての外部でのイベント参加、学内業務、大学院の講義など仕事が増えています。

 教員として本学に31年間勤めていましたが、学長にとして現役に復帰して何が最も変わったかというと、知っている学生が少なくなってきたということです。特にゼミ生が全くいないことが大きい。今学内で知っている学生は、私が担当した基礎演習の学生(2010、2011年度、合わせて24~26人か)、教養演習(2011年度、10数名)、2010、2011年度に私が担当した授業を受講した学生たちです。したがって3,4年生ということになります。かつては歩いていると、必ずどこからか声がかかっていましたが最近はそれがほとんどないので淋しいですね。

 須佐地区が大災害にあったのは7月28日(日)だったと思います。私は萩市出身で、たまたま当日萩に用があって萩の家に帰っており、朝方の豪雨を経験しました。夢見心地だったので何時頃だったかはっきりとした覚えがありませんが、雷を伴ったたたきつけるようなすごい雨でした。大災害にあった須佐地区は萩の私の家から車で40分、距離にして30数キロも離れています。朝起きると、私の家の前を消防車が何台もサイレンを鳴らして山間部の方へ走っていきました。昼前には長いサイレンが3回なりました。これは阿武川の上流にある阿武川ダムを放流する合図なのです。阿武川ダムの放流は2~3年に一度あるかないかの珍しい出来事だと思います。このサイレンを聞いて奥地ではずいぶん雨が降ったのだなと思っていましたが、テレビを見ると、須佐・田万川地区で「過去に経験したことがないような」豪雨で大きな被害が出ているということを知りました。
 故郷の萩市のことでもあり、ずいぶん気になっていたところ、8月5日(月)に本学の吉弘准教授が学生を1人つれて萩市須佐地区に災害ボランティアに行くと聞いたので、私の当日の予定を変更して一緒に行くことにしました。
以下は吉弘准教授が書いた文章です。この文章を読んでいただければ、我々の一連の行動がわかりますのでここに紹介しておきます。

萩市須佐地域での集中豪雨水害の片づけボランティアについて

 
 
 

 2013年8月5日(月)に、7月末に発生した山口県萩市須佐・田万川地区の集中豪雨災害の支援活動にボランティアとして参加するため、本学の吉津学長、経済学科教員吉弘憲介、経済学科4年生小原晃貴君の3名で萩市へと出かけた。8時20分に出発し、1時間15分で萩市内へ到着。その後、萩市内のコンビニで水や塩分補給用タブレットなど購入、道の駅で昼ごはんを調達した。幸い、災害以降不通となっていた191号線が迂回路の取り付けによって本日の6時に開通したという情報を得たので191号線を通り、予定より早く11時ごろに須佐地区に入ることができた。191号線が不通ならば内陸から同地域に入らねばならず1時間弱、余計に時間がかかるはずであった。
 ボランティアセンターとなっている旧奈古高校須佐分校の校庭が仮設駐車場となっており、すでに大型バスなども含め多数の車が止まっていた。平日には人手不足との話もあったが、今日は比較的人が集まっているようだった。受付でパーソナルデータを記入し、体育館の中の待合室のようなところで10分ほど待機したのち、その日の受け持ちが指示された。個人宅の片づけということで、本学3名+周南から来られた20代の男性4名と一緒にワゴン車でボランティアセンターから10分ほどかけて作業をする個人宅に到着した。
 全員、初参加ということもあり、戸惑いながらの作業開始となった。ボランティアセンターも人手不足なのか、各作業現場は基本的に家主とボランティア同士の確認をしつつの作業となった。我々の伺った個人宅の家主さんは初老の女性一人、家は2軒の家を通路でつなげた比較的大きなお宅だった。既に、家主のお子さん夫婦により3部屋の畳は上げられていたが、問題はその下の床板の下に泥が入っており、床板を外して乾燥材を外へ出し泥をさらう作業があることだった。
 床板は釘でところどころ留まっており、基本的に建築技術は素人のボランティアでは最初のコツをつかむまでが四苦八苦というところであった。1時間ほどすると、建築を請け負った大工さんがやってきて床の釘を手際よく外してくれた。その後、午前中の休憩を一回取り水分や塩分の補給を行った。ぬるいスポーツドリンクが大変おいしく、塩分タブレットを2,3個噛み砕き、再度作業に戻った。基本的に作業は単純作業だが、夏の暑さとマスクなどでの息苦しさもあって、作業はなかなか大変なものとなった。30分ほどたって昼食休憩。その間、学長は家主の方と被害状況などについて話をしていた。気が付くと、着てきたつなぎは汗で重たくなっていた。これはまずいと、少し無理してでも水を飲み、再度の作業に入った。
 午後1時から再開した作業だが、1時間ほどすると参加者(吉弘)は体が重くなったのを感じたので、帰りの運転を考え少しペースを落とすことに。しかし、最後の最後で、納屋の下の泥出しが残っていることがわかり、それに参加。最後はスコップを動かすのもおっくうになっていた。午後2時半ごろには、一旦作業を終了し道具などを洗うなど帰り支度を行った。成人男性が4,5時間9人がかりで家一軒をなんとか床下だけでも片づけるのが精いっぱいであった。帰りのワゴン車の迎えが来たので道具を積み込み、家主の方に別れを告げてボランティアセンターに戻った。長靴を洗い消毒し、手を洗い、うがいをして冷たいスポーツドリンクを飲んだ。一緒に作業をした方とも別れを告げ、下関市立大学の有志からいただいたカンパで購入した水(2リットル30本、500ミリ48本)を置いて帰路に就いた。
 途中、シャワーの浴びれる場所を探し、萩市郊外の阿武川ダム付近の阿武川温泉で体を洗い、下関へと帰ってきた。学校に到着したのは午後7時ごろであった。(吉津記:帰りは吉弘准教授に「眠たくなったらいつでも運転を交代するから」と言っていたのに、阿武川温泉から出て気づいたら市立大学に到着していた。まったく吉弘准教授の助けにはならず申し訳なく思っています。)
 水害の恐ろしさと同時に、復旧作業とはいえ、人の家に土足であがり泥を落としつつの作業には正直心が痛んだ。また、これが自分の家や自分の親戚の家であったらと、考える所は多かった。また、女性一人でボランティアに参加したり、高校の野球部が手伝いに来たりと人々の力というものには非常に勇気づけられた。
 しかし、先にも書いたようにまだまだ被害にあった家々を片づけるには人手が必要なようだ。テスト終了後など、まとまった時間ができた学生さんや、そのほか、可能な方は参加を検討していただけることを切に願いたい。
 また、募金活動など行えることをできるだけ実施していくことも重要と考えられる。今後、気候変動の不安定さからこのような局所的水害が増加するとの見通しもある中、下関市立大学でも継続してこうしたボランティア作業に関われる下地(継続した組織などの立ち上げなど)が形成されることを期待したい。
(2013.8.6 吉弘記)